AI化の突き当りに 一人

AI SITEC

最近の流行りの一つにAIがある。(Artificicial Intelligence)
なかでも自動車の自動運転が何かと話題だ。

人工知能の流行りという話題では、確か30年ほど前にもあった。
「ファジー」という言葉も波及して流行った。
「ファジー」とは「適当な」とか、「いい加減な」という意味だとか。
いたずらな顔で「ファジーなやつだな」なんて使い方をしていた人を思い出す。
そういえば女性が大喜びで使っていた。

当時のファジーを取り入れたAIの使われる方面としては、
「コンピューターは融通が効かず、物事を判断するには不適だ。だからこのソフトウエアをいい加減にして融通を利かせるということだ」という説明を聞いた。
家電の洗濯機や炊飯釜なんかは「AI搭載」と謳われていた。現在もそうなのか。
パーソナルコンピューターが普及したばかりで日本語変換が思うように出来なかった。
「ATOK」という日本語変換ソフトはこのAIを搭載して日本語の変換を良くしたとのことで多くの人が使った。
現在はOS標準のもので十分な気がする。これもAIだというのか。

自動車の自動運転は出来るのかという話はもう40年も前からあった。
もっと前からあったのかもしれない。
現在はもう少しだと言われているが、「完成間近」とも思えるし、「まだまだだ」とも思う。

「AIは人間を超えるか?」
この答えは「超えられない。」
何故なら、
「生命体は持続可能性を追求する行動をDNAに内包している。そして人間は生命体である。」
持続可能性を追求するプログラムを作ることは不可能だ。

AIは人間の思い通りに動いてくれるか?
動いてはくれない。
これには二つの理由がある。
それぞれの人間は考え一つにも多様性を持ち、個別に違うものを求める。
同じ人間でも次の瞬間には違うものを求めていることがある。
例えば、
人に何かを依頼して行動してもらう場合、きっちり伝えたつもりでいても、
「そうじゃなくて、もう少し….」
などと思うことは頻繁にあり、ぴったりと「それだ」はないだろう。

自分自身の行動をとってみても、
「思うようにいかないな」ということは良くあることだ。
自分自身に満足できない「人間」が、主観に合わせてもらうという、
AIから見た答えは無いのだ。

AIの目的はいつしか人間拒絶に向かっていないか。
省力化、効率化、人件費削減、コストパフォーマンス、増益

「利害関係者」という意味で「ステイクホルダー」という言葉がある。
ステイクホルダーは企業の出資者などと捉えられるワードとして用意されていた。
現在におけるステイクホルダーの考え方では、出資者・融資者・従業員・地域住民・行政・消費者なども入る。
それぞれが利益を追求し、組織の方向に多様に力を加える。
ステイクホルダーが多い組織はどう考えたって強力だ。

その対極はステイクホルダーが少ない組織で主観に収束する。
今AIを過度に進めようとする考え方が目立つ。
AIは人間になれないからいくら沢山作っても仲間は増えない。

社会はもっと人を大事にした方がいい。
そうしたら少子化なんて言葉はなくなると考える。

生きる目的

花壇枠型レイズドベッド

社会は一体どこに向かっているのだろうか?
それとも、社会は一体どこを目指しているのだろうか?

事業を行なっていると、あれこれと教えてくれる人がいる。
上手くいっていない事があると、どうにかしてあげたくなるということはその人は良い人なのだと思う。
しかし、個別の人たちにはそれぞれの生きる道があるためそれに素直に従えないことがある。
「…成功者はそうしている」と教えてくれる。
「しかし」というと可愛くないのだろう。

成功者とは一体何なのか。
何者なのか。
多くの富を持ち優雅に暮らす人なのか?
それならばアラブの王族やその関係する人々は成功者だ。
大企業の株主の子女は成功者だ。

成果として富が成功だとしたら、
「その目的が富で、その結果が富である」必要がある。

富の考え方について未来学者のアルビントフラーはいう。
「富とは2台目のフェラーリや自家用ジェットのことではない。
富とは可能性の集積のことである。」
トフラーから見れば富を手にしても可能性を発揮しなければ何にもならないということになりそうだ。

さて、我々人類の生きる目的は何だろうか?
中学生の頃、科学の先生は言った、
「人は何のために生きているのか。それは、子孫を残すことにある。」
そうなのかなとことある度に時々考え続けた。

最近は「持続可能性」という言葉が流行っている。
流行っているというと専門家に叱られるだろう。
普遍なものだと言われるかもしれない。
確かに普遍だ。

人類は何のために生きているのかを考えた場合、持続可能性がまっとうな目的だということが分かった。
多くの考え方がある中で、生命体は地球上で誕生したというものが最も有力な説で一般的になっている。
他の宇宙から来たという説もあるが、どこかで誕生して生き続けているということでは一緒だ。

最初に生命が誕生したのは物質の化学的な反応が物体としての生命を形作った。
命というよりも儚い存在で、意思といえるものは何もない。
わずかな望みがあるとすれば、持続可能性だ。

可能性を求めるわけだからいろんな方面に分散する。
この望みの繋がりが生物多様性を創造した。
繋がりの上に繋がりができ、その次の世代まで繋がりが絡み合う。
無数の生命の持続可能性が織りなす地球ビオトープが出来上がった。

意識を持つ生命体が誕生した。
人間だ。
人間の目的は何か?
人間の意識の中にはまず生きることがある。

意識は進化する。
未来を生きる子孫の存続を望む。
それが持続可能性の考え方だ。

我々人間は持続可能を成功に導くことができるのだろうか。

企業の倫理的行動

ポプラ社会的責任

企業の目的は何か?
「利潤を追求する組織である。」
という答えはもはや正確ではありません。

例えば、企業が自社の消費材を求め購入する理由は、
「それが一番安いから」というのが最も多いのではないでしょうか。
この場合、その材がどのようにして商品になっているのかは考えていない。

「企業の社会的責任」が問われる時代です。
商品のトレーサビリティーを確かめることも必要です。
どのようにして供給されている材なのか。

大手コーヒーメーカーが、その優位性を利用して、苦境に立つ現地農家から豆を買い叩いて購入していたこと。
ブランドスポーツシューズメーカーが、労働者に対し不当な労働慣行を行い、大きな利益を得ていたこと。
これら二つのことは海外で社会的責任の一例として説明される内容で実際に起きていた出来事です。

日本では上記ような話を聞くと、当たり前のことだという意見も多く聞かれます。
ということは、日本社会にはそんな問題が蔓延っているということになります。

社会的責任を果たすためには、倫理を学ぶ必要もあるのでしょう。