社会は一体どこに向かっているのだろうか?
それとも、社会は一体どこを目指しているのだろうか?
事業を行なっていると、あれこれと教えてくれる人がいる。
上手くいっていない事があると、どうにかしてあげたくなるということはその人は良い人なのだと思う。
しかし、個別の人たちにはそれぞれの生きる道があるためそれに素直に従えないことがある。
「…成功者はそうしている」と教えてくれる。
「しかし」というと可愛くないのだろう。
成功者とは一体何なのか。
何者なのか。
多くの富を持ち優雅に暮らす人なのか?
それならばアラブの王族やその関係する人々は成功者だ。
大企業の株主の子女は成功者だ。
成果として富が成功だとしたら、
「その目的が富で、その結果が富である」必要がある。
富の考え方について未来学者のアルビントフラーはいう。
「富とは2台目のフェラーリや自家用ジェットのことではない。
富とは可能性の集積のことである。」
トフラーから見れば富を手にしても可能性を発揮しなければ何にもならないということになりそうだ。
さて、我々人類の生きる目的は何だろうか?
中学生の頃、科学の先生は言った、
「人は何のために生きているのか。それは、子孫を残すことにある。」
そうなのかなとことある度に時々考え続けた。
最近は「持続可能性」という言葉が流行っている。
流行っているというと専門家に叱られるだろう。
普遍なものだと言われるかもしれない。
確かに普遍だ。
人類は何のために生きているのかを考えた場合、持続可能性がまっとうな目的だということが分かった。
多くの考え方がある中で、生命体は地球上で誕生したというものが最も有力な説で一般的になっている。
他の宇宙から来たという説もあるが、どこかで誕生して生き続けているということでは一緒だ。
最初に生命が誕生したのは物質の化学的な反応が物体としての生命を形作った。
命というよりも儚い存在で、意思といえるものは何もない。
わずかな望みがあるとすれば、持続可能性だ。
可能性を求めるわけだからいろんな方面に分散する。
この望みの繋がりが生物多様性を創造した。
繋がりの上に繋がりができ、その次の世代まで繋がりが絡み合う。
無数の生命の持続可能性が織りなす地球ビオトープが出来上がった。
意識を持つ生命体が誕生した。
人間だ。
人間の目的は何か?
人間の意識の中にはまず生きることがある。
意識は進化する。
未来を生きる子孫の存続を望む。
それが持続可能性の考え方だ。
我々人間は持続可能を成功に導くことができるのだろうか。