街中の樹がなくなることを望んでいないか?

街の中の木を邪魔もの扱いする人が多い。
集合住宅に住んでいる人は顕著だ。

例えば40世帯も住んでいるマンションの外構には広い敷地に3mに満たない樹が5本ほどしかない。
敷地外の樹には特にうるさい。
花木の花や葉が落ちて敷地に入るのが嫌なのだそうだ。
それだけ嫌うのだったらいっそ樹のない世界に住んでしまっては如何かと思う。

モアイ像で有名なイースター島には人が居ない。
その昔、森林が豊富な熱帯雨林の島であったという。
木材を利用するために伐採してしまったのだそうだ。
あるところまで伐採すると気候が変わり、土壌が変わる。
水を蓄えられる土ではなくなるのだ。

やがて残った木々も枯れ果ててしまった。
そして草木が生えない、動物も生活できない環境になってしまった。
人々は島を捨てるしかなくなった。

都市も同じ運命をたどるだろう。
まだ気候は変わっていないか?

選択しているのは都市の住民だ。

木材防腐剤の問題点

日本においては屋外で使用する樹木材料の防腐処理は当たり前になっています。
湿気が多い環境でカビによる腐蝕を阻止するためだということです。
しかし、防腐処理は生物の活動を化学薬品によって死滅させるものです。
このため、目的以外の生物や環境においても予測できない影響を与えてしまう可能性が排除できません。木材防腐剤の歴史は環境への悪影響に関する法律や世間の批判を回避するかたちで更新してきているのです。
その都度の真新しい説明を行いながらも、安全であるとは言い切りません。

木材の腐食防止には薬品を使わない方法もあります。
しかし、現在は都市社会の価値観ではこれは支持されません。

この先、私たちには地球の持続性を保ちながら木材を使用していくことが求められます。
木材の腐食についてもう少し理解を深めて利用することが求められます。
木材の腐食を阻止する方法について考えてみたいと思います。

木材はもともと分解しやすい素材ではありませんが、水、酸素、温度の3要素の程度によって腐食が進みます。
これらのどれかが欠ければ腐食は進行しません。

例えば、
水がない環境として、砂漠の中の木材を見てみましょう。
マルコポーロで有名なシルクロードに存在した都市”ローラン”は4世紀迄栄えていました。なんらかの気候変動によりその地帯から水がなくなり、やがて都市は衰退し人の住めない砂漠になったのです。
そのローランの遺跡には墓地があります。墓碑として木材を砂丘の上に突き刺しています。この遺跡は紀元前二世紀からのものです。
現在まで木材の墓碑が残っているのは砂漠によって木材の分解が阻止されてきたためです。

酸素のない環境としてはイタリアのベネチアが好例です。
ベネチアは河口の地盤の弱い環境に作られた都市です。
建物が沈まないように木の杭が水中に打ち立てられています。施工されたのは1400年も前のことだということです。現在もそれが機能しているのは水中とその下の泥の中は酸素が非常に希薄であるために木材が分解されないからなのです。

温度については年を通じて低温の環境では有機質は分解されにくくなります。
これは木質分解に関わる微生物が低温下では活動できないためです。
泥炭地を形成するような低温地帯では植物遺体が完全に分解されません。
もっと極端な例をとると永久凍土に埋まる生物遺体や木材は腐食せずに残っています。

これらのことを理解しながら、防腐剤に頼るのではなく、使用場所、使用方法を検討してものづくりの計画を進めていく必要があります。

コロナ禍 日本人の自慢の怖さ

コロナウイルスのニュースや情報が次々出てきています。
最近は減少の傾向にあり、諸外国に比べ日本は感染を防ぐことができたのは民力の力だと発言している大臣が批判を受けています。
しかし、この大自慢は大臣だけのことではありません。
多くの日本人が「日本だからできた」「日本人は生活習慣が素晴らしいからだ」「日本は清潔だからだ」など様々な自慢を抱いているのではないでしょうか?
でも、本当はどうして日本が欧米各国よりも感染が低いのかということの科学的な確信は得られていません。
だから本当の理由は見当違いのことであったりした場合、第二波、第三波…第N波が再来した時に適切な対応が出来ないという怖さがあると考えられます。
それはそうとして、今回の「怖さ」はそれとは異なる趣旨からの動機付けで書き始めます。

心理の部分です。
「日本人は、罰則のない呼びかけだけで外出の自粛や行動制限が出来たのだ。そのことが功を奏しコロナウイルスの爆発的拡大を押さえ込んだのだ。」
などの会話が湧き出てきたりしています。

しかし、呼びかけに対して自粛をしない企業や業界も存在していました。
呼びかけだけで自粛ができたという意見には語弊があります。
だからといって、私はその組織や人々を糾弾することはしたくありません。
憲法において犯罪を犯しているわけではないとさえ思っています。

では、その逆はどうでしょうか?
行政が、戒めとして、企業名を公表するという行為はどうでしょうか?
私はここの部分が非常に怪しいと感じてしまうのです。

先の自慢話で、「一致団結した日本の民衆は凄い」となる。
そうするとそれぞれの思想や都合で協力しなかった人たちは社会からどのように捉えられるのか?
その人本人はどのように感じるのだろうか?
「おれは俺だ」と一貫して自信を持ち続けられる人は心理的に強い人で問題はないでしょう。
「なんで自分は社会の大多数の行動に賛同できなかったのだろう?」と考えてしまわないだろうか?

多くの一般的な日本人は後者のように考えることがあります。

社会もその人を糾弾する。

ここで異なる事例に転換します。

戦時中、戦争反対の人が戦争に行かないという場合、憲兵により連行されたとか。

憲兵も怖いが、怖いのは社会だと思う。

徴集令状が届いた若者を集めて村が送り出したという。

母も家族も送り出しに参加する。

「行かない」と言えば家族も社会から辱めを受ける。

ここで本人には行かないとは言えない環境を作り出すのだ。

なんだか、現代日本の行政が行うことは戦時中と似ていないだろうか?